10月4日
母が 永眠しました。
朝、仕事に行く前に見たときには、ほんのりとピンク色だった母の頬は
連絡をもらってすぐに向かった時には、
すでに黄色く血色が悪くなっていました。
だけど、まだ、温かさが残っていました。
2月1日に入院をしてから、翌日に意識を失い、
気道切開をし、ペースメーカーに頼って生きてきた母。
いつも、
しんどいよね、お母さん、辛いよね、もういいんだよ、無理しなくても。
そう思っていました。
だけど、もういいんだよ という言葉は、
奇跡が起きて意識を取り戻すことを信じている父の前では
決して言うことはできませんでした。
ペースメーカーを入れたころ、母はまだ奈良に住んでいて、
あーちゃんが生まれて1年くらいだったでしょうか。
就寝時は 30そこそこしか打っていなかった母の心臓。
入院中に見る母の心電図は規則正しく いつも 60 を示していました。
いつのころからか、心房細動の波形が見られるようになり、
不整脈が頻繁に出るようになったのは、まだ一つ目の病院にいたころの事。
何度かもうだめかもしれないという事態に陥った時、
「お父さんが寂しそうだよ、お母さん、目を開けてあげて」
と話しかけました。
母はあたしの声が届いたかのように、持ち直していました。
9月の初旬、母の血圧がぐっと下がり、
主治医からは、今日か明日には…と言われました。
その時も「お父さんが寂しそうだよ」と話しかけると、
夜には血圧がぐっと上がり持ち直したのです。
きっと父の事が心配だったのだろうなと…。
こちらに同居するようになって8カ月、それから入院期間も8カ月。
母は あたしに、十分とは言えませんが、
親孝行をする時間と、覚悟をする時間を与えてくれました。
家の中で転倒して手首のあたりを骨折し、一緒に入浴するようになったり、
買い物ついでに歩くリハビリをしようと出かけたり。
もしも、これらの事全てが、離れた場所にいた時に起きたことならば
あたしはいろんなことを後悔し、悲しみ、今も笑っていなかったかと思います。
だけど、悔いなく、見送ることができたと思っているんです。
もちろん、もっといろんなところに連れて行ってあげたかったとか、
おいしかったと言ってくれた料理をもっと食べてもらいたかったとか、
ないわけではありません。
でも、母のそばにいてあげられた事は、一番の親孝行だったんだと思います。
そして、あたし自身にもよかった事なんだと。
入院期間が長かったことで、突然家から居なくなったという感覚は薄く、
どちらかといえば、まだ どこかの病院に入院しているんじゃないかなと
思えてくるほどです。
母はあたしや父の悲しみを和らげるために、
あれだけの間頑張って闘病してくれたんじゃないかなって、、、
お葬式の時に棺に入った母の頬をなでながら、
もう二度と母という存在に触ることはできないのだと思った瞬間が
一番つらかった。
冷たくなっているけれど、まるで眠っているような顔。
子供たちの ばあばへの手紙を電報と一緒に読んでもらいました。
「病院でもしんどかったね、治ると思ってたのに 死んじゃったね。」
子供たちの目にも 病院での母が辛そうにしんどそうに映っていたんだと
その時、思いました。
自宅のソファーでテレビを見ているうちに
うつらうつらと寝てしまった母を見ていて、
生きているのがとてもしんどそうだなと思ったことがありました。
今の母の魂は どうだろう?
今は安らかな所にいれるのだろうか?
身体的なしんどさからは解放されているのだろうか?
ついつい そんな風に考えてしまいます。
心配してくださった皆さん、
あたしは今、笑えていますよ。
母を想い、泣く事もあるけれど
様子を見に帰省してくれた友人や
その他たくさんの友人、職場の人たち、
そして家族。
みんなが 心の支えになっています。
そして、あたしには、支えていかなきゃいけない 父がいます。
だから また パワーを持つことができます。
男が残ると 駄目だね。
父は 本当にしょんぼりしてビールの量も増えたように思います。
でもマイダーリンや子供たちも じいじを盛り上げてくれています。
きっと 母も 安心してくれているでしょう。
親孝行はいくらやっても満ちることはないんだと思います。
これからもっと、父にも親孝行をしなくちゃね。
おかあさん、見ていてね。
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by jownyanko
| 2011-10-25 00:08
| 日々思う事